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何億分の一の奇跡というパラレル。
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05.05.09:45

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  • 05/05/09:45

03.24.01:31

心と理性。

机の整理してたらいつか書いた紙っきれがでてきて、ちょっと興味深かった。

以下その内容です
理解しづらい気がします。
Noelって人に向けて書いてます。


―――
こんにちはノエル。今日も一日やり過ごした。でもね。やっぱり心っていうものは僕にとっては決して鍛えれるものじゃない気がする。何をどう鍛えるのかも見当つかないしね。“鍛える”と言えた物というのは僕の考える所ではそれは“慣れ”だと思う。慣れは“麻痺”だ。つまり「それ」を感じなくなってゆくってこと。
でも僕が鍛えられないってのは、未だ人の「悪意」が駄目だから。“悪意”と言うよりかは本能的に感じる原始的な快楽、というのか人間の本来感じる理性のない心のない極めて低俗な残酷さ。どう言い表せばいいかあまり思いつかないけど、この気分も前に一度あった。人間の“狂気”は本能的に拒絶する、ほんとに駄目なんだ。
ノエル、こんな程度の低い、ちゃちな短絡的思考を誰だって持っているんだ。それが日常的に自然になり、皆がそれに気づかないと―――、人々は壊れる。壊れて、“それ”が心を乗っ取る。人は、人を無くしてしまう。
そう、人は一度それを経験している。「ユダヤ人虐殺」という形で。

人の悪意なんて本当は大したものでもない。悪意はむしろ、人が上手くそれを隠しきれなかった一部である気がする。“理性”で覆いきれなかった気持ちが、心として表面的に外へ出たもの。だから本当に、本能的に恐ろしいのは、隠しているその“何か”であるのだ。

どうも悲しくなる。理性とそれは正反対で、全くの対極だから、理性的といえる自分はことさらに駄目なのかもしれない。前もそう。人の悪意のない、純粋な狂気に吐き気がした。やってる当人は何も考えたりはしない。“心”が消えてしまったのだから感じることはできないのだ。心は病んでる。「麻痺」をすると、人はどうかなるってことさ。


正直、感じることは辛い。だって鍛えれもできないからすべてを自分自身の力で受け取めるしかない。決して慣れない。そしてこれからも、そういう事を目の当たりにするだろう。慣れでもしないと人はぼろぼろになっちゃう。
でも僕はできないのだ。理性のせいで“麻痺”なんて、、、
間違った選択だとも思う。けれど、そう


感じることがやっぱり必要なんだ。感じて、考えなきゃいけないんだ。
麻痺したとき…人は自分を見失ってしまうのだ。



―――

携帯から打ってるんで動画の送付もできないんですが(早く直れパソコン)中国のある動物園の実態の動画見て思ったことを書いていた様。まあ見てもらえれば分かるけど、人間の原始的な快楽のために、動物を正に利用しているのを見て胸糞悪くなった。人は古代ローマからそういう所は変わってない。理性を抑えない限り、技術が発展しようと中国は何の成長もできないはず。

長文失礼、何の話か意味不明だと思う。
パソコン直ったらまた修正します。


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03.20.08:50

みにデクスター&別れについて。

パソコンがスト中。

どうやら今日、一番なじみがあった母方の祖父が亡くなったので鹿児島行ってきます。

人の死をみるのはこれが初めてではないけれど。

そういえば僕の担任も今年で退任を迎えた。
僕の今までの担任の先生の中では一番、僕に理解がある人でした、


微妙にちょっとした別れの続くここ最近

まあ何か意味があるのだろう、
と考えるいつもの自分ですが、

いつもそう事を受けとったりしない周りの人と温度差ができる。
だから僕は別れを惜しむふりをする、

実はけっこうよくやる。

“ない”ものが“ある”ふり、嘘はつくわけじゃない、あるふりをしてるだけ

そう、あるようにしてれば
いつかそれがめばえるかも


人格疑われるかもしれないが
別れを惜しむってどうも苦手
惜しまないわけじゃありませんが、
過去を回想して悲しむなんて、僕は小っさい頃に止めちゃったから。
そこに意味があまり見つからなくて。


みんなそれぞれに別れかた、惜しみかたってものがあるもんだ

そこは概念的に均一化するもんでもない、

人が何故別れを惜しむのかは理解できる。
けれど僕はそれを手放すことに慣れなきゃいけないと、知っているから。


(´・ω・`)


デクスター見てて思ったんだけれども。


02.21.03:52

周りの世界について


全部小さな事。そして僕がどうすることもできない事。例えば未来を待っている今。例えばこの広大な宇宙。例えば学校の周りの人。何千光年も先にある小さな星。例えば儚い程の素晴らしい景色。例えば天空までとどきそうな星空。友人との関係。例えば壮大に広がる青い海。この世界の様々なもの、僕の勉強。様々な生き方。青い空。


ふと考えるくだらない事に辟易したり。ふと考えた答えのない事に心がぶるぶると震えたり。嬉しくて不愉快でわくわくして寂しくて嫌いだったり心地良かったり、どうしようもないものだけど。

でもね、今は分からなくてもいいと思うのです。答えなんて皆が思うほど大事なものでもないから。素晴らしいものは大低、人間に分かるようなちっぽけな答えではありません。だから答えがないのです。だからどうすることもできないんだと思う。



02.21.03:36

考えたことについて



誰がなんと言おうと、誰にどう思われようと、それは大して重要ではありません。全く意味のあるものではないからです。そして僕がそうしようと決めたことだからです。

02.11.01:03

ベンジャミン・バトン―数奇な人生―をみたことについて



なんだか人生についてを感じた時間だった。
人の死のことを想った。

僕が考えるのもどうかなって思うかな
こういうのは、子供があまり感じることでもないからね、僕はまだ16歳。人生の四分の一すら生きていないのだけど。

人は普通、年をとることが恐い、それは単に死へという概念に直結しているからだとも思う
そして老いることに共なう外見の衰えや大切な人々との別れ、これが大低の理由のはず
今の人々達って大部分が多分、“若い方がいい”と考えているもの。
そりゃあそう、何でもできる。それに人は“きれい”な方がいいと思ってる、大多数の人がそうして若さにしがみつこうと逆らっているけど。

だけど、結局人は老いる。それは必然性
誰にも変えられないことだ。
死ぬことだって。でも多くの人は、その必然からなんとか逃れる道はないかともがきながら日々を送っている。変わりたくないんだ。変わりたくないけど。

変わってしまう。いつかはなくなってしまう。そのことが恐いんだ
失うのが。
僕だって恐い。勿論恐い。不意に考えたって、泣き出したくもなりそうだ(泣かないけど)。失って初めて、その大切さは分かるものだから。

だからその前に、僕らは気づいておくべきなんだ、自分が誰かを、そして何かを、ずっと手元に置いておくことはできないんだって。
僕らは知っていなきゃ、出逢った人々と、いつか必ず別れることを、

今の僕や友人、クラスメイト、若い人間。これらの人々はまだ自分が死ぬだなんて思ってもいない。
あるのは人生をかけて過ごす、いまだ膨大な時間だ

ある人が言ってた、
生まれた時と死ぬのは同じなんだ、
はじめがあって、終わりがある。すべてはそれから始まるんだ。偉大でもちっぽけでも何でもない

人生は80年で、僕は16歳。こんな年の人が言えることでもないけど。
他人がどう思うが“死”そのものは実に淡々としている、
僕は一回、本当に死ぬかと感じたことがあります。でもね、死ってのは
何て簡単なんだろう
何て単純なんだろう
そんなことくらいにか僕は思わないです、思わなかった。




僕はまだ生きる機会を持ってる。人は早くに理解をしておくことがあるんだ
変わらないものなんてない。失くせない、見失ってはいけないことがあるんだって。自分のそばにそういうものがあるのは、限られた時間だけってこと。
それを手放すことに慣れなければならないと知っておくんだって。


それと最後にもう一つ
人生は素晴らしいってこと。