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何億分の一の奇跡というパラレル。
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04.26.01:34

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  • 04/26/01:34

03.24.01:31

心と理性。

机の整理してたらいつか書いた紙っきれがでてきて、ちょっと興味深かった。

以下その内容です
理解しづらい気がします。
Noelって人に向けて書いてます。


―――
こんにちはノエル。今日も一日やり過ごした。でもね。やっぱり心っていうものは僕にとっては決して鍛えれるものじゃない気がする。何をどう鍛えるのかも見当つかないしね。“鍛える”と言えた物というのは僕の考える所ではそれは“慣れ”だと思う。慣れは“麻痺”だ。つまり「それ」を感じなくなってゆくってこと。
でも僕が鍛えられないってのは、未だ人の「悪意」が駄目だから。“悪意”と言うよりかは本能的に感じる原始的な快楽、というのか人間の本来感じる理性のない心のない極めて低俗な残酷さ。どう言い表せばいいかあまり思いつかないけど、この気分も前に一度あった。人間の“狂気”は本能的に拒絶する、ほんとに駄目なんだ。
ノエル、こんな程度の低い、ちゃちな短絡的思考を誰だって持っているんだ。それが日常的に自然になり、皆がそれに気づかないと―――、人々は壊れる。壊れて、“それ”が心を乗っ取る。人は、人を無くしてしまう。
そう、人は一度それを経験している。「ユダヤ人虐殺」という形で。

人の悪意なんて本当は大したものでもない。悪意はむしろ、人が上手くそれを隠しきれなかった一部である気がする。“理性”で覆いきれなかった気持ちが、心として表面的に外へ出たもの。だから本当に、本能的に恐ろしいのは、隠しているその“何か”であるのだ。

どうも悲しくなる。理性とそれは正反対で、全くの対極だから、理性的といえる自分はことさらに駄目なのかもしれない。前もそう。人の悪意のない、純粋な狂気に吐き気がした。やってる当人は何も考えたりはしない。“心”が消えてしまったのだから感じることはできないのだ。心は病んでる。「麻痺」をすると、人はどうかなるってことさ。


正直、感じることは辛い。だって鍛えれもできないからすべてを自分自身の力で受け取めるしかない。決して慣れない。そしてこれからも、そういう事を目の当たりにするだろう。慣れでもしないと人はぼろぼろになっちゃう。
でも僕はできないのだ。理性のせいで“麻痺”なんて、、、
間違った選択だとも思う。けれど、そう


感じることがやっぱり必要なんだ。感じて、考えなきゃいけないんだ。
麻痺したとき…人は自分を見失ってしまうのだ。



―――

携帯から打ってるんで動画の送付もできないんですが(早く直れパソコン)中国のある動物園の実態の動画見て思ったことを書いていた様。まあ見てもらえれば分かるけど、人間の原始的な快楽のために、動物を正に利用しているのを見て胸糞悪くなった。人は古代ローマからそういう所は変わってない。理性を抑えない限り、技術が発展しようと中国は何の成長もできないはず。

長文失礼、何の話か意味不明だと思う。
パソコン直ったらまた修正します。


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03.20.08:50

みにデクスター&別れについて。

パソコンがスト中。

どうやら今日、一番なじみがあった母方の祖父が亡くなったので鹿児島行ってきます。

人の死をみるのはこれが初めてではないけれど。

そういえば僕の担任も今年で退任を迎えた。
僕の今までの担任の先生の中では一番、僕に理解がある人でした、


微妙にちょっとした別れの続くここ最近

まあ何か意味があるのだろう、
と考えるいつもの自分ですが、

いつもそう事を受けとったりしない周りの人と温度差ができる。
だから僕は別れを惜しむふりをする、

実はけっこうよくやる。

“ない”ものが“ある”ふり、嘘はつくわけじゃない、あるふりをしてるだけ

そう、あるようにしてれば
いつかそれがめばえるかも


人格疑われるかもしれないが
別れを惜しむってどうも苦手
惜しまないわけじゃありませんが、
過去を回想して悲しむなんて、僕は小っさい頃に止めちゃったから。
そこに意味があまり見つからなくて。


みんなそれぞれに別れかた、惜しみかたってものがあるもんだ

そこは概念的に均一化するもんでもない、

人が何故別れを惜しむのかは理解できる。
けれど僕はそれを手放すことに慣れなきゃいけないと、知っているから。


(´・ω・`)


デクスター見てて思ったんだけれども。


02.27.22:10

雨とラヴェル


今日の雨のイメージは、ラヴェルの「水の戯れ」だった。この曲は凄すぎる。水の態様を完璧に描ききっていると評されているけど、そんなもんじゃない、きっとそれ以上だ
秀逸的で繊細にして、張り詰めている水の透明さ。ああもうすげぇ、

学校で今日、高3を送る会があって
ビデオレター流したり
ちょっとした出し物的なのをしたり、

皆楽しそうにしてた 、けどひねくれている僕は一人悲しくなっていました←←

なんでって、理由は自分でもよくわからないが
きっと僕がひねくれているからだろう、


Ravel: Jeux d'eau / 水の戯れ





なんだか色んな人が弾いているのでどれを掲載するべきかが問題だけれども、
彼女の演奏が一番自分のイメージと合っているように思う

02.27.21:33

Bob Marly 「Redemption Song」


この曲のカバーはすべて素晴らしい

でもやっぱり本家が最高だと思う。


02.27.21:25

Redemption Song


最近好きな天気が続いていて嬉しい。霧雨の白い空がいいと思う、
遠くのものが霞がかってまっ白だから、まるで夢の中な気分。

帰り道に僕は普段の道を歩いていました。雨があがって周りは白く、空気がしっとりとしてる。
聴いていたのはボブ・マーリーの「リデンプション・ソング」。

“救い”の歌。彼の歌って何て心に直接響くんだろう、メロディに圧倒的な‘心’があふれてる。

これを聴いていて、ふとしたきっかけで空を見上げた、
周りはトーンが低くて薄暗かったけど、空はただ高くてそして綺麗だった。それを僕ははっと気づいた。

そして立ち止まって空を見上げていると、どうしてだか途方にくれてしまった。

高い高い空の下で、彼の歌が真に心に響いてきた。


リデンプション・ソング、救いの歌。自由の歌。
なぜだかその時、自由を求めるこの歌の意味が分かった気がした。

でも、どうしてだろう
僕には未来がある。やりたいこともあるし、毎日だって色々あるけど、うまくやっているとおもう、
何より自分には“希望”がある。それなのに、“救ってほしい”と思うのは何故なのだろう?

そう、僕の周りには楽しい事や面白い事、価値のある事に会う、人生の可能性が満ち溢れているのに、僕は一人美しい景色の中で途方にくれてしまっている。

“誰か救ってくれ”と思った。そこには自由への歌が流れていた。
彼が歌っていた。

高い空の上で雲が動いているのを見ると、思わず涙がでてきた。


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